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03ルール
AS 秋山 伸A 浅野隆昌
秋山 伸
グラフィック・デザイナー/ブック・メイカー/edition.nord/ATW代表
2008年より新宿のデザイン事務所schtücco内の出版プロジェクトとして活動が始まる。2010年末にその中心メンバーの秋山伸と堤あやこは秋山の故郷の豪雪地帯・南魚沼に移住。その後、デザイン業務と並行して、年1-2冊の地道な出版活動を継続している。同時に、NY アート・ブック・フェアを始めとする海外のアート・ブック・フェア、アート・ブックの展覧会への参加や、国内外から本に関するレクチャーやワークショップ等の依頼を受けるなど、本のデザインや出版に付帯する活動も広く展開している。2021年より神戸に拠点を移す。2024年よりKOBE STUDIO Y3のスタジオ・アーティスト。
平面、比例
今日はよろしくお願いします。僕は6年ぐらい前に秋山さんが東京で開催された、タイポグラフィのスクールを2日間受講していたんですが、覚えてないですよね…?
覚えてなかったです。すみません。でもキュレーターの吉田山さんたちがやっていた、ギャラリー「FL田SH」のウェブサイトを作られていますよね? そこで浅野さんの名前を覚えました。その仕事がとても印象に残っていて。だから独立したデザイナーとして早めに名前を知ってました。スクールの時は一致していませんでしたけど。
そうでしたか。嬉しいです。
スクールは2日間だけだったんですが、実際に受講してみて内容に驚きました。例えば書体の扱いなどはいろんな方がノウハウを公開されてますが、媒体の中にどう配置していくのかということまで強固な独自のメソッドがあって。
比例の話のこと?
そうです。僕が参加した時は、まず初めにある矩形の中に、黒塗りした長方形を2つ置くことから始まりました。
長方形のサイズと比率は自由。配置した2つの長方形の4辺に沿ったガイドラインを媒体の端まで伸ばすと、媒体の矩形の中にガイドの格子ができる。その格子が作るいくつかの方形、つまり画面の内部に潜む方形に対して、「それぞれ差があり、リズムがついている」「正方形ではなく、美しい比例の長方形になっているか」ということを確認していく、というプログラムでした。
次第に長方形の数が増え、長方形が文字と写真に変わっていく。できたら秋山さんに見せにいくんですが、本当に算数の先生みたいに、マル/バツがついて返ってくるのがすごい新鮮で。美術教育であそこまでロジカルなメソッドは、聞いたことがなかったので。
あまりないですね。前から比例が大事であろうということには気がついていたので、私も探してはみたのですが、実践的なものはなく。完成作品を後で分析するものはありますけどね。貝の渦巻き(フィボナッチ数列)を当てはめるみたいなものはありますけど、僕はああいうものを全然信用していなくて。
独立したあたりから仕事の中で少しづつ方法化していき、後に事務所の教育の中で検証をしていきました。この考え方は一般的には邪道というしかないものでしたけど、この感覚を事務所の中で同じものとして共有できないと、スタイルは確立できないと思っていたので、所員を相手に検証しながらそれをやってたんですね。
そうでしたか。
それをスクールでもう少し一般化しました。プライベート・メソドロジーというタイトルにして、あくまで私的なものですよ、と提示するんだったらいいんじゃないかなと。ユニバーサルなものです、とは言えない気持ちがあったので。
事務所でスタッフと共有する必要がなければ、メソッド化には至らなかったですか?
いえ、そもそもは自分の興味からの探求でした。なんででしょうね。理系だからなのか。なんでこれが美しいんだろう、ということを考えていました。
空間の中に何かモノを置くというのは、意味とは関係ないですよね。レイアウトを多少変えても、意味的には大きな変化はないですよね。じゃあ、良い/悪いって何なんだろうっていうことを、タイポグラフィのようなすごく形式化した領域で考えると、やっぱり判型の輪郭とオブジェクト間の関係しかないのかなと思って。まずは比例っていう、長さと長さの関係で良い/悪いを考えるしかないのかな? ということで。
確かに。具体的にどうやって考えていったんですか?
駆け出しのあんまり仕事がない頃に、タイトルとキャプションの2つの文字列をどう配置したらいいのか、ということを延々と試していました。配置だけでなくサイズの変化も試すと、これだけでもとんでもない数の関係性があるじゃないですか。
ありますね。
その時は良い/悪いに、まだ自信がなかった。これをどのように結論づけるのか。自分の感覚がまだ分からないから、客観的に決めざるを得ない。悩まなくて済む楽な方法はないかな?っていう(笑)。それで比例っていう定量的なもので考え始めたんですね。
そのロジックを組み立てるためには、判断する感覚をしっかりぶれずに維持し続けないとダメですよね。
そういうこともあります。これは慣れちゃったからつまらなく感じているのか? とか、ただ今新鮮に感じているだけなのか? とか。だけど、やってるうちに徐々に普遍的なポイントがどこなのか分かってきました。
さっきの2つの文字列との格闘で全て分かったわけではないのですが、いろんな仕事をしながらケース・スタディーを重ねていきました。
僕が受講したスクールでは、扱うオブジェクトが少しずつ増えていったんですけど、同じような道のりで?
そうですね。僕が検証してきた道のりと同じものを短時間でやってもらっています。まだ2つぐらいだったら場合分けでなんとか検証できるんだけど、オブジェクトが10個ぐらいになると、もう無限に近い関係性ができますよね。そうなってくると全部検証している暇もないし、本当にそんなところまで人は見てるのかっていう疑問もあるので、今は一番強く見えてくる分節から整えていこうというやり方にしています。あと、今はあれからもうちょっと進化して、正方形でもいいことにしました。
内部の矩形のことですよね。正方形はダメって話でした、僕の時は。
そうでした。完全な1対1の正方形ならいいんだけど、その比率が少しずれると途端に良くないっていうのが今の考え方です。でも正方形を多用すると硬くなりますよ、とは言ってますけどね。
改訂しているんですね。
改訂したり、妥協したり。昔は正方形はダメって言ってましたけど、比例の好みのリサーチを見ると、正方形は結構好かれてるんですよね。比例の調査があるんです。正方形から外れると急に人気がなくなって、白銀比や黄金比でピークがあって、黄金比を過ぎると急に人気がなくなるっていう調査結果のグラフがあって。
僕自身は正方形は嫌いなんだけど(黄金比よりも差が大きいダブル・スクエアぐらいの方が好き)、でも一般の人にそういう傾向があるのであれば、それに則ることをダメって言わない方がいいのかなと思って。僕の事務所では正方形はダメだけど、スクールで外部の人にダメって言うのはちょっと自分を押し付けすぎてる感じがするので。
そんなリサーチがあるんですね。
改訂の必要性はどういう時に生まれるんですか? 例えば正方形をアリとしたきっかけなど。
正方形をたくさん作っている構成が、醜いとは言えないってことに気がつきました。僕は窮屈かなと思ってたんだけど、使い方によっては美しいかもしれないなと。
あと、正方形が好きな人がたくさんいるっていう統計があるのであれば、それを僕の趣味で否定するのは科学をねじ曲げているという感じがして。
でも自分でちゃんと検証してみたいんですけどね。正方形の人気は、白銀比や黄金比の、こう言ってよければ自然で有機的な比例の認知とは違って、何か特別に観念的なものが入っているような気がするんですよ。僕の予想ですけどね。
特別な観念…。
その後グラフィックデザインの実例を検証してみたのですが、戸田ツトムさんの内部構造なんかはほとんど正方形。白銀比や黄金比もありますけれども、基本的には正方形の多層構造みたいな感じ。
戸田ツトムさんにあまり正方形のイメージはなかったです。
僕もです。戸田さんにはもっと流れるようなイメージがあったんだけど、線を引いてみると正方形が多かったんです。
戸田さんを主題にした鈴木一誌さんのインタビュー記事で、「戸田は矩形, とりわけ正方形とたたかった」(1)って書いてあったんですよ。鈴木さんも戸田さんも既に亡くなられてますから、どれだけ内部構造の比例を意識的にやっていたか分かりませんけど。
そうでしたか。やはり線を引かないと分からないんですね。
「流れる」というのがどういう意味かによりますけど、少なくとも戸田さんは上下左右のバランスが均等なタイプのデザインではないですよね。天秤的なバランスの話ではなく、「要素が紙面でしっかり固着して、もう動かしようがない」みたいな意味だと、全然流れていないようにも感じます。戸田さんの仕事を語れるほど詳しくはないのですが。
僕も正方形を使うとそうなると思ってました。正方形を多用すると硬くなっちゃうと。しかし、正方形を多層的に使うと別のものを生み出すこともできる、という反省が分析した上でありました。
多分、比例の好き嫌いにも社会的なものがあると思うんですよね。やっぱり日本だったら白銀比、西洋だったら黄金比に人気があって。白銀比が日本のいろんな住まいや物に潜んでいたからこそ、そこで育ってきた人が好きになったとか。先天的なものではなく、社会的な影響もあるとは思うんですけどね。
確かに環境に要因がありそうです。でも面白いですね。秋山さんはルール/ロジックはしっかり固めたいけども、モダンで固まった画面は目指していないんですよね。
そうですね。ロジックはなるべく明快に固めていきたいんだけど、デザインは硬いのが嫌いっていう(笑)。
思考と作りたいものにギャップがある。ステレオタイプな印象ではありますが。
そうですね。今は垂直水平じゃない比例に突入してます。
角度?
角度も含めてどういうものが美しいのかっていうのを今考えていて。例えばこういうデザインですね。まだ自分では分からないんだけど、これがいいと思う感覚は何なのかっていうのを今分析してる感じです。
角度の数値の関係みたいなことですか?
それもありますね。まずは「90度や45度ではなく、60度や30度ぐらいの方が動きを感じる」ということに気がついてそこから考え始めました。文字が空間に置かれるという事象をもっと一般化すると、角度についても考えなきゃいけないと思って。考えなきゃいけないというか、考えたいと思って。
斜めに重ねるやつ、いつも重なり方がめっちゃ美しいなと思っています。特にこのポスターです。
これは2016年にブルノ・ビエンナーレに参加した記念に開催した個展のために作ったポスターなんだけど、僕もこれ気に入ってて。そこから文字を重ねちゃえ、みたいなことが始まりました。
適当に重ねてこんな綺麗な関係にならないでしょう…! みたいな。めちゃめちゃ綺麗に関係性ができていて。相当細かい処理をしていますよね。
最初は思い切りで、その後のディテールは念入りにやってます。
しかし全然わざとらしくない。僕がスクールの時に「斜めにするやつやりたいです」って言ったら、「まだ早い」って言われたのを思い出しました。
(笑)。まだ僕も到達してなかったから。指導できる能力がなかったから早いって言ったのかも。
空間、即興
秋山さんは平面を設計する秋山伸(グラフィックデザイナー)と、空間を制作する秋山ブク(美術家)の2つの名前で活動していますよね。
同じ人が作っているので当然かもしれませんが、空間設計でも平面設計と同じものを感じます。例えばこういう。これは秋山ブクの方ですよね?
これは、わざと垂直や水平がなるべく生じないようにしている実験ですね。秋山伸と秋山ブクは、それぞれが交わることを想定しないで別人格として楽しくやってたんですけど、今、ブクからの学びが伸の方に表れています。
というのは、平面設計のアプリ上では同じものを水平垂直や等間隔に並べるのはすごい簡単ですが、逆に斜めにしたりカオス的にレイアウトするのは難しいですよね。
逆にひと手間かかりますね。
でもこういうリアルなオブジェクトがある現場では逆です。揃えるのがすごく難しいし、めんどくさい。生活のためなら揃える必要もないわけですよ。
揃えようと思うと、モダンデザインの教科書というか、インテリア雑誌にあるような綺麗なものしかできないんだけど。でも生きた空間って、もっといろんな可能性があるような気がして。俯瞰的な視点でマス目上に整理されるのもひとつの美しさなんだけど、そこにいるからこその置き方とか生きられた結果の関係性で別の美しさみたいなものが発掘できないのかなって。
美しいです。
宇田川さんとされていたものとか。雑然としているけど、それぞれの関係性が面白いし、美しい。こういうオブジェクトを分散させずに積み上げるインスタレーションもありますよね?
梅香堂の時とか。
既存の空間の要素も面白く見えてくる。
でも空間にすると途端に難易度上がりますよね。単純に見る角度が増える、というか無限になってしまうから。色や素材、量感とか、そういうものも存分に関わってくる。おそらく、光源の向きや距離も関わってきますよね。
でもこれもさっきの比例の検証と同じで、全部の角度から美しいとかありえないわけですから。光も含めて常にいろんなものが変化していて、まあまあなレベルで全体がまとまっているということで完成としなければ、もう楽しくなくなっちゃう。楽しくあるには諦めることですね(笑)。
諦め。そうですよね。でもとても美しく感じます。これもですか?これめちゃ好きです。
ビジターの見る角度と位置を考えて、お客さんが会場を周った時に面白くなっているかということも一応チェックしてますね。
これはチューリッヒの本屋さんで、edition nordと日本でパブリッシャーをしている友だち(Rondade)のポップアップ・フェアをやった時に本のディスプレイ空間を作ったんですね。備品を地下倉庫から運び上げて。でも半日もかかってないですね。これを褒められたのは初めて。
そうですか? 写真でしか見たことないのですが、めちゃ美しいなと思っていました。物を全部揃えてから組み立て始めるんですか?
地下から持ってきたものをまずは置いてみて、何か欲しいと思ったら地下に行って探す、みたいな感じです。
こういったインスタレーションでは全体の設計をしないんです。先に設計しちゃうと、それに追いつくようにするのが苦しいんですよ。絶対イメージ通りにはならないから。その不毛さを回避するために、その場で初めて即興的に作ります。その方が気が楽だし、面白いものが作れる。「前に置いたものに対して次はこうする」っていう連続性の中に身を置くととても楽しい。即興演奏のような連続の中で組み込んでいって、最後見直して辻褄を合わせるみたいな。でもブクもかなりルールを決めてやっているんですよ。
具体的にどういうルールですか?
そこにあるものを使う。あと、釘やテープは使わない。ただ、要請があれば可逆的な補強をする。社会的な要請もひとつのコンテクストとして。後付けルールもありますけど(笑)。
行為に対する制約ですか。社会的な要請?
お客さんが観に来る空間であれば、壊れないようなものを見せなければいけない。それはその場でものの関係性が成立できる社会的な条件のひとつとして捉えています。
即物的な試みとしては少し矛盾があるんですけど、大きな構造の補強材として使えるものがなければ、実は買い足したりはしています。なるべくそういうことがないように、その場にあるもので完結したいんだけど、展示という制度に組み込まれる限りは安全性は担保されないといけないと思うので。一方、壊れても危険ではないアレンジメントは、長く持つという条件は構成のルールからは除外しています。崩れたままでもよいし、監視の人が好きに組み直してもよい。最後のルールとしては、終わったものがちゃんと元の場所に戻るとか…。
最近は、あらかじめその空間の下見をしないことにしています。初めてそこに行って、そこで発見したことや感じたことで作っていく。
下見に行かないのはさすがに怖いです。でも楽しそうです。
すごく楽しいですよ。最初は不安もあったけど、今はもうあまりない。場数をこなしているので、物さえあれば何とかできるという確信は持っています。
即興インストール。憧れがありますし、今よりも面白いものが作れそうな気がします。
やってみたらいい。めちゃくちゃ楽しいですよ。その場で何かをやらなきゃいけないプレッシャーはあるけど、何か根源的な喜びがある。
毎回諦めの連続だけど、諦めた時に何か新しいことをやらざるを得ない。諦めと工夫の連続、それが自分ではとても面白いですね。
ルール、包摂
ルールについては僕も関心があります。顕著なのは、友人たちと作った『Recording Room』っていう、自動で楽曲を制作するインスタレーションです。これはもう本当にルールを決めたら、あとは1週間以上そのルールでやり通さないといけないので、設計がすごく難しかったです。
頭じゃ作れないものをやりたくてやってみた企画ではあったんですけど、「ルールを決めたらあとは流れ作業を進めていくだけ」というのが、ある種かっこいいというか、ニヒリスティックな態度が出ていたような気もします。
この装置のプログラムのルールはいろいろと試してます。音源だけでなく、カットアップの変数とか、フェードイン/フェードアウトはどうするかとか。音源のテンポや音量でも全然違っちゃうので。
4つ置いているのはスピーカーですか?
スピーカーです。スピーカーは鑑賞者ではなく中心にあるマイクへ向いてます。演奏会ではなく楽曲制作をしているということを、これで伝えられるかなと。あと鑑賞者に背を向けているっていうのも面白いかなと思って。
音の信号はどこから来てるんですか?
PCです。プログラムで管理しています。15種の自作音源が、ランダムで4つのスピーカーにセットされていく感じです。変わった音源がひとつ加わると一気に変化が面白くなるけど、組み合わせによっては音がケンカして聴いてられなくなったり。なのでこの時のルール設計の終盤は、ほとんどバグ対応みたいなものでした。
ルールのバグを直すことが大変だったってことですか?
はい。ルールを設定して、そこから想定外のものが生まれるのは楽しいんですけど、やっぱりどうしても許容できないレベルの変化も発生してしまい。なので終盤はしんどかったです。こうなることを見越してエンジニアがGUIを作ってくれていました。
でも「ルールを決めて、あとは手放し」っていうやり方は今後もやってみたいです。秋山さんは手放しでされているとは思いませんが。
結構手放しでやってますよ。2023年にdddでやった『ファクトリーdddd』のポスターでは、「下部に展示情報だけ入れておいて、上部の余白にビジュアルを子どもや知り合いのコミュニティに描いてもらう」ということをやってて。
この展示は「被包摂」というテーマで、いろんなものが混ざってもいいような展示を考えてみました。鑑賞者がいたり、滞在して作っていたり、ワークショップが行われていたり。ひとつの空間にいろんなことが同時進行で発生してるような空間(フーコーの言うエテロトピア)が、僕にとっては理想でした。
印象的な展示でした。メタのチャンネルを変えながら鑑賞するというか。見どころがレイヤーで分かれている感覚でした。
運用の中で許容できない想定外の出来事が発生して、したくはないけど規制を強化してしまうようなことはありますか?
多少はあります。ポスターの余白部分に描いてもらうときは「ここは文字情報だから塗らないでね」とは一応伝えるんだけど、子どもはそんなことお構いなしにロゴとか潰しちゃったりするから。そうなると広報のツールとしては使えないんですよね。それじゃあこれは展示用にしようとか。
あと「既存のキャラクターは描かないでね」とも言うんだけど、描いちゃう人はいるわけですよ。そうなってしまうと展示にも使えなくなるから、検閲みたいなことをやらざるを得ないのがちょっと残念なんだけど。
多少はありますよね。安心しました。
そう?(笑)
『Recording Room』で僕がしていたルール改訂は、いろんな変化を包摂するための改訂というより、ただ抑制方向に力をかけるものだったので。精度が上がる反面、出来上がったものがピュアでなくなるような気もしたし、手放しで作っているとは言えないんじゃないか、みたいな不毛な葛藤がありました。
『ファクトリーdddd』だと、平山尚昌さんとスプレーとマジックで大量のDMを手描きで作るパフォーマンスも面白かったです。
平山さんに「一緒にDM10,000部くらい作ってくれますか?」 って聞いたら「いいですよ」って言われて。その後この写真が送られてきて「これでやります」みたいな。確かにぺンがたくさんあった方が全然能率が上がるし。あとちょっとリズムが出た。
リズムがありました。線が独立しつつも運動が連動していて。
DMも良い/悪いを選別してないんですよ。というか僕にとっては全部よく見える。不思議なんですよ。違う10,000部が全部よく見えるってすごいデザインの発明なんじゃないかと思って(笑)。
軽やかで、むき出しで、すごくよかったです。告知物は全く手放しなんですか?
「こちらで制作して納品するもの」と、「いろんなコミュニティに制作してもらったもの」がありました。
こちらで制作するポスターはゼミや学科の学生にやってもらって。でもほぼお任せで。ただ、できたものを見て、もうちょっとここにも穴を開けてもいいんじゃない? みたいなことは少しやりました。こちらで作って納品する分に関しては、職業意識が多少あったのか、最後のフィニッシュのひと手間を入れました。
コミュニティから送られてきたものに対しては何もしていません。もちろん自分の感覚で「ここ足りないな」とか、もっとよくするアイデアが浮かぶんですけど、しかし手を加えるのは趣旨と違うと思ってて。どんな造形も、やった行為の結果としてはみんな同じという考えでした。この時は造形性より行為性の方を優位にさせたいっていう。
だからといって、気持ち悪いものは全然なかったんですよ。未完成な感じのものや、いたずら書きみたいなものはたくさんあったけど、そういうものがこの空間にあることが、結果として全体をすごく生き生きさせていた。
やっぱり全然手放しだ。
edition nordのすごく頑張って製本したものや、試行錯誤して壊れちゃったものとか、途中で放り出して投げちゃったものが、混在してる状態がとてもいいと思ったんですよね。デザインでも美術の世界でも、そういう感覚はまだ開拓する余地があるんじゃないかなと思っています。
ブクでやってきたことが伸に影響を与えているんです。あんなことはデザインの世界では全然発想もできなかった。最初はデザインでも綺麗に揃えるみたいなことをやっていたけど、ブクでは揃えることに意味がないと考える。
このやり方であれば、一旦収まった空間に何かを追加しないといけない時に、満員電車が新たに乗る人を包摂するように少しずつ空間を空けるだけで入っちゃうわけですよ。グリッドだと、誰かが入るために誰かが出なきゃいけない。何かを排除するのではなく、みんなが窮屈さをうまく分配して何かを受け入れる。そういう価値観をデザインとして示すことができるんじゃないかと。
「受け入れる」そんな展示でした。通例のグラフィックデザインの展覧会に対して課題を感じていますか?
それは昔から問題意識としてずっとありました。額装して綺麗な作品として見せるっていうことに対するアンチテーゼの姿勢もちょっとありました。多分そんな態度表明の端緒は『お引越とお葬式』じゃないかな。
未完成状態ということも、人がいるということも、この展示から始まってますね。
ルール、撹乱
このテーマをメールでいただいた時、最初に考えたのは「私たちの仕事は全てルールでできているんだろう」ということです。ルールがあるかないかではなく、ほとんどのものがルールでできている。そうでなければ何も作れないと思っています。
ルールを疑うことは大事なんだけど、あるルールに従わないと選択した場合でも、全くルール外で動いているという幻想を持つことはよくないと思っていて。ほとんどの場合、細部まで重層的なルールの空間の中を泳いでいるだけだと思います。無限に続くルールの中で、私たちは常に何かを作っていることを自覚しなければいけない。だから、ずらしを考えることしかできないんじゃないかなと思うんですよね。
すごく共感できます。ただ、まだ漠然としてます。
ルールがなければデザインって作れないと思うんですよね。「自分はルールに則っていない」みたいな態度はちょっと欺瞞だと思いますね。
だからといって、全て受け入れるのもよくない。ルールの中でもいろいろできるんだけど、そのルールを少しでも変えることの方が美しく造形することより創造的だと思っていて。僕はそっちに興味があります。
僕は「撹乱」という言葉を好きで使っていて、全部ひっくり返したり、新しくしたりするのではなく、一瞬わけが分からなくなるようにする。それが面白いと思っています。
新しく感じる試みも多くはルール上の工夫ですよね。ルールを自覚して、且つある程度はルールに則っていないと撹乱できない。
例えば『ファクトリーdddd』のポスターは、ポスターという形式は守っているし、告知という部分も守っている。発送できるということも守っている。ずらしたのは「デザイナーが描いていない」ということと、「全部違うものになっている」ということです。ルールがなければ撹乱もできない。だから、全く新しいことをやっているわけではない。
当たり前過ぎて考えなかったですが、改めて考えるとかなりルールを守っています。
撹乱は相対的なものだと思います。ルールをずらすことは相対的なもので、ある意味では非常に有効な差異化だと思うんですよ。美的な差異化ではなく。
『ファクトリーdddd』のポスターがウェブサイトに一枚だけ載っているのを見ると、つまらないポスターを作ったなと思っちゃうんだけど、これは「群であるからいい」という考え方です。
成り立ちがずれることで、判断の基準もずらさざるを得ない。この企画では、一枚のサンプルをアーカイブすることには、あまり意味がなくなってしまう。
秋山さんは、メタに捉えたいという意識がありますよね。常に。でないと当たり前すぎるルールは見えてこないはず。
確かにそうかもしれません。それはデザイナーとしての差異化の戦略でもありますが、基本は面白いことをやりたいってことなんですけどね。
独自のルールを設ける起因はアンチテーゼですか?
アンチテーゼというか、疑問ですね。いろんなものに、本当にそうなの? っていう疑問があります。ルールって、いつの間にか決まっちゃってて、何の理由もなく定着してるものも結構あると思うんですよ。結構あるっていうか、ほとんどのものがそうだと思います。
僕はそれに対して、ちゃんとそれ検証してるの? と思って調べるんだけど、どこにも行き着かないことが多いんですよね。誰かが感覚的に言ったものが定着しちゃった、みたいなものがたくさんあると思っていて。
秋山さんのメソッドは二次的な行いであって、まず最初に既存のルールに疑いがあることが、重要な気がしました。
検証する時にまず仮説を立てるという話がありましたけど、仮説は既存のものから離れているほどワクワクしますか?
そうですね。やっぱり自分で面白いことをやりたいなと思って。自分で面白いと思うのは、ちょっと笑えるもの。なんでこんなバカバカしいことをやってるの? って笑えてしまうんだけど、でも否定できない面白さがあるよねってものが一番やりたい。誰でもできるのに、バカバカしくて誰もやらなかったことをやるのが一番かっこいいんじゃないかな。
海外に本を持っていった時に、クレイジーって言われるのが一番嬉しいんですよ。
クレイジーです。
クレイジーって、既存のルールからは逸脱してるけど捨てがたい魅力がある、ってことですよね。ルールを超えてもいいってことを認めてもらえたことだと思うんですよ、クレイジーって。
僕は造形的な探求にも興味を持ってやってますけど、ものづくりの態度としてはそっちの方を目指してるので。精緻なものと、それとはまた別のクレイジーなところを目指してる。その分裂した特徴があるかもしれません。
『大竹伸朗 憶速』(浅野が最初に買った秋山さんの本)もヤバかったから買ったわけです。要は。
ヤバいも嬉しいですね。
余談、タイポグラフィ・スクールの影響
タイポグラフィ・スクールを受講してもらいましたけど、浅野さんの作品を見た時に、僕のタイポグラフィの感じはあんまりしないなって(笑)。
(笑)
何か根底にあるのかなと思ったけど、影響というなら、ブクの方が大きいんじゃないかと思って。それをちゃんと感覚的に掴んでもらっているところが逆に嬉しくて。こういう世界に、若い人が広げてくれる可能性を少し感じてます。
比例の話ですよね。やってないかもです…。あ、でも少しは。自分の解釈で…(笑)。
(笑)。全く真似されるよりは、消化して自分のものにしてもらってるところがすごく良かったです。抽象化して自分の中に取り入れて、一旦忘れてやってもらうみたいなことは、僕は全然いいと思ってて。まるまるそっくりやるよりも、若い人にはやっぱり消化して新しいものを作ってもらいたいから。
それよりも、全体のあっけらかんとした抜けた感じとか。一つの秩序には固まらないけど、どこか全体的に共通性があるというか。紙面の空白感とかには感じるものがあります。
浅野さんのウェブサイトを見させてもらった時、とても良かったなって思いました。直接的な僕の形跡は見えなかったけど、でもどこかに何かあるような気もして。
よかったです。
余談、秋山さんに影響を受けて作ったものを見せる、貧の手法
昔こんなものを作ったんですが、これ秋山さんの『大竹伸朗 憶速』に影響を受けてますね。
素材のこと? ニードルフェルト? 全然いいです。ありがとうございます。
これはプレスされたものですが。安かったです。ホームセンターで大量に切ってもらいました。
ヨーゼフ・ボイスもこれ使ってますよね。大竹さんのやつはボイスの引用だったんですか?
引用ではないです。ボイスが使っていることは後で気がついて。元々この素材が僕は好きで。大竹さんの仕事で一回使ったんだけど、連続して使ったらちょっとボイス過ぎるからやめようって。
そうでしたか。何か関係があるのかと勘ぐっていました。
あとこのフォトブックなんですが、これは『Tiger Park』の影響だと思います。レーザープリントをスクラム綴じ(留め具を使わず重ねただけの中綴じ製本)で売り物にしちゃうという。
でもこれは別に僕の専売特許でもないし。
でも、僕はこの手法を先行事例なしでは選べなかったと思います。もっと前からレーザープリントの実践はされていたと思うんですが、最初にそれを見た時も衝撃でした。これでいいんだ、みたいな。
オフセットじゃなくてね。開きなおりは確かにあったかもしれないですね。
レーザー出力のスクラム製本って、シーケンス検討用のダミーやん、みたいな(笑)。成り立たせてるのは透明のカバーと文字ですよね。これだけで成立させてるのが軽やかで素敵です。
タイポグラフィの便利なところですよね(笑)。
予算が極端に少ないと、根本的に発想を変えないといけないじゃないですか。こっちが勝手に提案したものとか、友達の何かを作るとか、自主制作とか、そんなの全然予算ないし。でもそういうのも結構好きです。
ルールを変えざるを得ない。
そうです。高価な印刷ができないどころか、オフセットが使えない、ネットプリントでも躊躇する時があります。なのでレーザープリンターを使った実践例は励みになりました。
今ではそういう実践をしている人はめちゃめちゃいますし、その界隈ではかなりベタなことを言っていると思いますが。
この企画は印刷費が全く捻出できなかったので、もうデータだけ販売して購入者に印刷してもらう仕様にしました。
(笑)。僕も「貧」は経験しています。展示会場でブク的なことをやるというのは、まさに貧の話です。什器とか作っている場合じゃない、みたいな(笑)。あるものでしかできない。「ある予算でしかできない」ことと、「あるものしか使うことができない」ことは、少し似ていると思います。
そうですね。特注の什器なんて作ってられないことだらけです。
でもお金がある仕事でも、わざわざ貧の手法をやっているところはありますよ。そういうことをやってきた強みだけで今生き延びている感じです(笑)。
機械でしか量を作れないと思われてきたことも、ちょっとの工夫と楽観があれば手作業で全然できるんですよ。そんなに苦ではなくて、お菓子を食べながら、音楽を聴きながら、おしゃべりしながら結構楽しくできちゃう。それをやらない手はない。
確かに少し予算に余裕がある仕事でも、そういう発想で考えてしまいます。
貧の手法。2020年代以降のムーブメントですね(笑)。
背負いたくないんですが…(笑)。
(1)鈴木一誌インタビュー「戸田ツトム 背景を眼差すデザイン」『アイデア』No.391、誠文堂新光社、2020年
収録=2026年5月21日
場所=神戸芸術工科大学 秋山伸ゼミ室/神戸市内の居酒屋
収録協力=吉川和弥

















