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01鮮度と完成度
H 服部一成A 浅野隆昌I 石田和幸O 大坪メイ
服部一成
グラフィックデザイナー。1964年東京生まれ。1988年東京藝術大学美術学部デザイン科卒業、ライトパブリシティ入社。2001年よりフリーランス。主な仕事に、「キユーピーハーフ」の広告、雑誌『流行通信』『here and there』『真夜中』のアートディレクション、「三菱一号館美術館」「新潟市美術館」「弘前れんが倉庫美術館」のVIとサインデザイン、「プチ・ロワイヤル仏和辞典」「旺文社古語辞典」の装丁、バンド「くるり」のアートワークなど。毎日デザイン賞、亀倉雄策賞、東京ADC賞、原弘賞、東京TDCグランプリなどを受賞。
完成度の解釈
今回は「鮮度と完成度」というテーマでお話ししてみたいと思っています。
アイディアでも造形でも、見たことのない新鮮な何かを掴んでも、ブラッシュアップの最中にどんどん鮮度を失っていき、見慣れたものになってしまうことが度々あります。ブラッシュアップの方法が形式的になってしまっている、ということもあるとは思うのですが。
服部さんはその双方を達成していると言いますか、いつもアイディアと造形を瑞々しい状態で定着されているように感じています。
鮮度と完成度? そのテーマ設定がどうかなと思ったんだけど。鮮度っていう言葉をどういう意味で使うかにもよるんだけど、完成度がないと新鮮さは伝わらないと思いますけどね。少し作ってみて、ちょっと何か新しいものができそうって思っても、それを突き詰めて完成度を高めていかないと伝わるものにならない。だから鮮度と完成度が反比例するような軸じゃないというか。それはただ完成度を上げないで新鮮っぽく見せているだけかもって思っちゃう。
なるほど。
鮮度ってことで言うと、例えば写真を使った表現だとわかりやすい。さっき浅野くんが言ったみたいに、捕まえた瞬間に偶然も入り込んで、瑞々しいものが今目の前にあるかも、みたいなことがわかりやすく起こるよね。でも作り込んでいくとつまらなくなっちゃったってことはよくあるし、よくわかる。完成させていかないといけないんだけど、一番肝心なところはなくさないようにしておく、みたいなことはよく考えていますね。けど、鮮度が全てでもないので。
完成度という軸もかなり大事な上で…?
いや、その「完成度とは何か」というのが一番問題かもね。よく完成度高いと言われているものが本当にそうかなのかどうかは、かなり疑いを持ってずっとやってきたと思います。
そこすごく聞きたいです。初めからそういうものに疑問があったということですか?
性格じゃないですか?(笑)。でも、周りの人たちがやっているのを見てきて、完成度高い? ただ退屈なだけじゃない? みたいなことが結構あったんじゃないですかね。
完成度というものはあるよ。あると思うけど、その「完成度とは何か」が難しいんじゃない? グラフィックデザインっていう狭い世界で考えるのではなく、例えば写真や絵画の世界ではどんな感じかなとか。セザンヌの絵に塗り残しがあっても完成度低いとか思わないじゃない。極端な例のようだけど、そういうことなんじゃないかな。
確かに。
でも、やっぱりデザインって伝わればいいんだから本当は何をやってもいいのに、ある型にはまっていないとみんな安心しない、みたいなことはありますよね。その型を一生懸命やっているものが完成度が高いと言われていたりもするのかな。でもそういうもので、型を極めた、みたいなすごいものもありますよ。大好きなのもいっぱいありますよ。だけど、そればっかりでもないよな。完成度って何だろう。
それぞれの作っているものによって、完成させていく方向ってきっと違うし、いきなりできているものもきっとあるしね。ただ、その軸も僕だってやっぱり作るものによって全然違う。それがハズレる時もありますけどね。これ失敗したな、みたいなものも結構ありますよ。アタリ/ハズレが多い人だと思われているんじゃないかなって内心思っていますけど。
服部さんの失敗、気になります。
ありますよ。言わないけど(笑)。でも「わざと違う完成度を狙っていますよ」っていう作り方もやったかもね。昔のキユーピーの広告とかは、割とわかりやすくやったつもりだった。でもこれも、これなりの完成度を求めてやっているからね。この場合はすごい写真家のすごい写真より、この下手な写真じゃないとこれは成立しないぞ、みたいな。でも下手がいいとは本当は思っていないわけ。違う狙いもあるっていうことを、どうやったら完成させられるかなっていうことですかね。
チームでやるのが難しそうだなと思いました。作るものによって、完成度の軸がかなり異なるのであれば。
そうかもね。だから個人的な仕事が多いのかもしれないけど。でも写真家と組むこともあるし、いわゆる完成度高くいこうっていう仕事もあるしね。だから何とも言えませんけど。ただ、いわゆる完成度っていう尺度を疑っていることは間違いないかな。
鮮度の解釈
ところで、鮮度ってどういうイメージなんですか?
僕は作っている時のワクワク感っていうか、自分の中のフレッシュな感覚みたいなところが今回の軸かなと思いつつ、グラフィックデザイン文化における新しさみたいなものにも興味はあって。僕はそのふたつを併せて捉えてみたいです。
さっき服部さんが退屈って言葉を使われて、僕は単純に作業の中で既視感のある退屈なものになってしまったものを、鮮度が落ちたと捉えていると思いました。可能性が多く、形式に定まらない状態を鮮度が高いと感じているのかもしれないです。
自分の感覚で言うと、繰り返し同じようなことをしてしまっている時もある中で、どういうチャレンジをそこに盛り込んでいくかみたいなことも、自分の中の鮮度には影響するのかなと思っていて。世間的に見たらわからないけど、自分の中でちょっと新しい気持ちでできるかどうかということは考えたりしています。
つまり、作者としての自分にとっての新鮮さみたいなことなんだね、どっちかというと。
客観的なものも個人的なものも、どちらもあると思うのですが。僕は「新鮮」は客観的な印象として、「鮮度」は全ての制作物にある普遍的な軸として、使っているかもしれません。
自分的には同じことを繰り返すことはなるべく避けたいなと思うけど、やっぱり手癖で同じようなことが起きちゃったりとかして。そういう時に悩むことは結構あります。
新鮮だねってよく言ったりするけど、それもよくよく考えてみると結構疑わしいと思う。例えば審査会みたいな場で、新鮮とか言われるものが本当に新鮮かどうかはわからない。ほとんどの場合、本当にフレッシュなものというより、ちょっと今っぽく見えるものとか、なんとなく古臭く見えないテイストだとか、意外とその程度のことだったり。ある程度は見知った感じがないと新鮮に思えないみたいなこともある。新鮮って言葉もちょっと疑っているというか。
基準はそれぞれというか、見てきたものや年齢によっても違ったりしますよね。
あと、依頼主はいつも新鮮なことや新しいことを求めているとは限らないよね。自分の仕事で新しいチャレンジをしてほしいってあまり思っていないかもしれない。古臭く見えたら困るけど、失敗されても困るから。当然だと思いますけどね。ある程度安全な範囲の中の新しさが求められたりするんじゃないですか。
その仕事に対してフィットするとか、いろんな大事なことがあるなかで、新鮮かどうかはそれほどでもってことも、結構あると思う。「新しい感じにしてほしい」って言っていても、その新しい感じっていうのは、ある程度みんなが知っている新しさだったりするからね。
そうですよね。「新しさとは何か」は難しい。さすがに展覧会作品では鮮度の軸を意識しますか?
展覧会とかになると、それがないとやる意味ないかなという気もあるしね。ただ、どこが新しいかは、すごく難しいことだと思うけどね。新しく見えないものの中に新しさがあったりもすると思うので。
新しく見えない方法の中にも新しさがある、みたいなところに自分は興味があって。過去の『アイデア』の服部さんの特集号のコメントで、「やっぱり自分の仕事はクラシックでオーソドックスだなとつくづく思いましたね」(1)とお話しされていました。でも第三者的に見る僕からは、クラシックな方法で作られているけど、新しさというか、鮮度を感じていました。
昔言ったことをピックアップされるとつらいな(笑)。
やっているフィールドとか技術的な部分では、僕は全然新しくないと思いますけどね。新しいテクノロジーを使うとか、そういうのできないし。デザイナーの立ち位置的にも新しいとも全然思わない。仕事との関わり方も一番普通なことをやっている。むしろちょっと時代遅れな感じもするけど。でもその中でもまだいろいろあるとは思っていますけどね。テクノロジーちょっとついていってないから。
自分の手の届く範囲のことの方が好き、みたいなことは根底にあるんですか?
ベーシックな色と形とか、文字と写真とか、そういう素材だけでやった方が自分はできると感じているってことかな。テクノロジーをうまく使っていける人もいるけど、でき上がっても自分が作ったんじゃなくて、テクノロジーが作ったみたいな感じがちょっとしてしまったり。自分の力が十分出せる感じがしないのかもしれない。
新しい方法、1
網線シリーズも初めから新作を作ろうというモチベーションだったんですか?
これは『グラフィックトライアル』っていう凸版印刷の企画で。新しい印刷表現のために、何をやってもいいっていう依頼でした。でも、何をやっても新しくならないからどうしようかなとずっと悩んでましたね。「どんな実験印刷でも、何色刷りでもやります」みたいなことだったんだけど。でも、特殊な印刷をすることが本当に面白いのかなって思ったんですよ。わりと逆を行こうとするんだね。
それよりむしろ一番当たり前の印刷で、新しいことができた方がいいんじゃないかなとか、そういうことはずっとあった。だから、プロセス4色(CMYK)だけで作った。もちろん新しいことをやりたいっていうのもあったけど、それよりは、印刷、印刷、印刷…って考えていたね。
初めは手書きの線で進めようとしていたものを、急遽PCで作成したベクターの線に戻した、という話を聞いたことがあります。
最初はCMYKと手描きの線であの表現ができたら、新しいイラストみたいなものができると思って、手で描いていたんだけど。銅版画みたいな感じになるかな、と思って。でもやってみたら、ただすごく下手なだけみたいな、それこそ完成度ゼロみたいになって。やばい、どうしようってなっていた時に、上から手描きでトレースするために作っていた、コンピューターの線の状態のものが横にあって。下描き用のものだったから、最初は目に入ってなかったのね。でもこっちの方がいいじゃん、みたいな感じで。
後から振り返ると、やっぱり手描きの方は、手描きでやることと網点を線に変化させるってことのふたつをやっていて、複雑になってしまっていたかもね。手描きをやめると、余計な味みたいなものがパッとなくなって、すごいドライに考え方だけがポコッと出てきた。そういうこともありますよね。
結果的に新鮮だったみたいな感覚ですか?
でき上がってみたらね。これはちょっと新しいかもとは思ったけど。
それが一番いい気がします。新しいものを作ろうみたいな、メラメラしたものが世の中にはすごいある気がするんですが、服部さんはそれとはまた違う、さらっと新しいものを生み出されているように感じます。
でも、何か新しい方法はないかっていうことは、意識的に考えたりもしている。ただちょっと新鮮に見えるってことじゃなくて、やっぱり方法が根本的に新しいとか、今までダサいと思われていたことをわざとドカンってやって、逆にアリって思えるようにするにはどうしたらいいかとか。ある意味小賢しいけど、そういうことは考えているかもね。いつも。
その後これに。
もうちょっと可能性があるかなと思ってケーキにしてみたり。その後もアレンジを入れたりはしてますけど。このシリーズは仕組みそのものがデザインみたいなものだから。その後は完成度も何もないんだよね。色と太さとモチーフを変えていくだけだから。
これはこの表現方法で水のキラキラが表現できるのか、みたいな。難しいじゃん? 水ってさ。絵画でも難しいことが、できるのかどうかやってみた。
この時は絵画とかイラストレーションを意識しているんですね。
マッチとか日本酒のポスターの時に、すごく感じました。多分この表現方法でやりにくいものをモチーフにしたのかな、みたいな。
そうかもしれない。ある程度リアルな水に見えないと成立しないと思って。グラフィックといっても半分絵を描いているようなものだから、完成度の軸がデザインのそれとはちょっと違うのかもしれないけどね。
僕、若い時からデザインすごい好きだったし、モダニズムのすごいカッチリしたデザインも好きなんだけど。これまでのいろんな歴史がある上で「2020年にもなってじゃあ何をやるのか」とは考えたいよね。毎回そう考えられているとは思わないけど、ただなぞっていてもしょうがなくて。そういった流れとは別のものが何かないかなとか、そんなことは意識はしているかもしれない。
根本的に新しい方法論みたいなものがあれば、一瞬フレッシュに見えるだけじゃなくて、20年経ってもいいなって思えるような強さは出るかもとは思っているけどね。なかなかそうはいかないけどね。
簡単に見えるようにしておく、という意識もありますか? 見た人が一見自分でもできそうと感じるところで収めておくというか。
うーん。それもあるかもしれないけど。大事なこと以外はあんまりしないでおこうって意識の方があるかもしれない。
なるほど。「後から失敗したと感じるものも多い」という話がありましたが、手を加えすぎたことへの反省が多いですか?
そういう時もありますよね。もっとあっさりやっておいた方がよかったかなってこともあります。失敗はさまざまだけどね。あとは、できるだけ身の回りにある素材というか、誰でも入手できる素材で作ろうみたいな意識もあるかもしれません。簡単な素材で作りたいというか。
例えば家でいうと、すごい銘木が床柱になっているみたいな建築を見ること自体は別に嫌いじゃないんだけど、自分が設計するなら普通に売っている、コンクリート、ガラス、鉄とか、そういうもので作っていきたいという意識はありますね。
僕も線を手で描くっていうことを近年意識しています。それもみんなが持っているペンとか紙とかで描いた線。だけどその中に新しさを発見できたら、いわゆる古い/新しいみたいなことを超えた新しさを作れるんじゃないかと思っています。
新しい方法、2
展示『裸婦』のポスターも作り込みすぎず、ある種の瞬発力みたいなものが収められた状態というか、その状態で筆を止めているような印象も受けたのですが、筆の置きどころ的なことを意識しながら作られるんですか。
僕も感じました。その前の『これはリンゴではない』よりも、筆の置きどころの妙をすごく感じました。
どうなんだろうね。でもやり方から新鮮な方法を何か考えようという命題は、このシリーズの時もやっぱり自分の中にはっきりあって。
昔こういうグレーのぐちゃぐちゃみたいなやつを一回だけ作ったことがあったんだけど、それもドローイングをヒントにしていて。画家が描くスケッチやドローイングって、完成度とはちょっと違う魅力ですよね。完成を目指していないっていうか。別にどこで筆を止めてもよかったり、むしろ途中で終わっているから魅力に見えたり。ああいうドローイングの良さをグラフィック的解釈でやったらどうなるんだろう、みたいなことを最初に考えた。
最初に作った『これはリンゴではない』は実はすごい時間がかかって。モチーフは何がいいかとか。数字を書いてみたり。「5」とか。ポップアートで文字を絵画にしたりするじゃない? ジャスパー・ジョーンズとかさ。そういうモチーフはどうかとか。結果的にはむしろオーソドックスな絵画のモチーフをやった方が面白いとなったんだけど。
なるほど、そうだったんですね。
だからそういう意味では、自分としてはすごい完成度を上げたわけ。他の人が見たら、どこが完成なんだって思うとは思うけど。でも自分としては、塗り残しがあるのが大事とか、色数があんまり多すぎるとベタベタするとか、線の重なりはあった方がいいのか、ない方がいいのかとか。意外と地道にやっていますよ。塗りの線はモチーフの形に沿った方がいいのかとか、ラフにバーッと配置した方がいいのかとか。スケッチで色を塗る時、大きい面積はバーッて長いストロークで描いたり、小さい面積は細かく描いたりするよね。そういうことをヒントにしながら。そういう意味では、このリンゴは完成度を上げる作業が割とうまくいったんじゃないかな。自分としての完成度だけどね。
モチーフは「5」よりもリンゴの方がよかったっていう感覚は、今なら言語化できますか?
わからない(笑)。今なら「5」でもいいのかもしれない。いろんなモチーフを試したんだよね。ただの円柱みたいなのを描いたり。その時は捨ててたんだけど、この時に復活させた。あと『これはリンゴではない』はマグリットを引用してる。ポスターをプリントアウトして販売するっていうOFSの『POSTERS』の企画で、購入者が部屋に飾るためのものだったから、言葉と絵でできているのもいいかなとか。
絵画を飾る代わりにポスターを飾るみたいな。
このシリーズは、絵画を引用するというのがテーマとしてあるんですか?
スケッチや絵を描くということが発想の元でもあるから、そういうことにしている。本当はただタッチがあれば何でもいいんだろうけど。『裸婦』は田中良治との二人展で、このテーマは彼が決めたんだよね。ミルトン・グレイザーの『Big Nudes』っていうポスターがあって。絵の中に額縁のような枠があって、その枠を境に何故かモチーフがズレているわけ。それを昔見て、かっこいいなと思ってたの。ズレてるだけで成立してるみたいなさ。今回のモチーフもヌードだし、じゃあズラすかと思って。額縁だと本当の真似になっちゃうから十字線にした。窓ごしにヌードを見てるみたいでいいかも、と。
ロゴ、文字
ロゴだと長期運用を想定するから、広告とか一枚の絵よりも一般的な完成度とか耐久度が求められたりもすると思うのですが。
僕が作っているロゴは割と単純な形態のものが多いけどね。時間の長さに耐えなきゃいけないみたいなことは考えているかな。でも考えてもわからないところもあるけどね。
そうですね。耐久度って何だろうってよく思います。
結局何が長持ちするのかはわからなかったりする。文字間隔もスペーシングもバッチリなものがかっこいいかどうかはまた別だったりもするし。
ヨーロッパの古いブランドのロゴなんかで、よく見ると字間が変だったり、文字のフォルムがルール通りじゃなかったりするようなのも、結構あるよね。これでいいのかな、みたいな。でも企業の活動がいいと、それでよく見えちゃうわけだよね。だからロゴの完成度って何だろう。完成してないけど完成してるみたいなさ。そういうこともあるかもしれないね。
隙が多いけどいいと思うロゴはたくさんありますね。
あとロゴとか文字の場合は、割り切れないところがヒントになることはあるよね。例えば、5文字×3行ですっきり割り切れるより、1文字余っちゃう時にそれを何か工夫した時の方がよくなるみたいなさ。完成させにくいところをどうするかを考えていくと、ポンと面白くなってたり。あと文字はやっぱり、文字自体が生きものだから、手を入れすぎると死んじゃうみたいなこともよくあるしね。
手を入れすぎるっていうのは?
文字はもともと筆で書いたものとか石に彫ったものとか、そういうものがだんだん時代を経て、整然としてきているわけだけど。もともとはそういうものだから、すごいきっちり幾何学的なフォルムに収めちゃったりすると、綺麗に収まっているけど死んだようになっちゃうみたいなことはあるかな。まあ僕も幾何学的な文字とかよくやってはいるんだけどね。
服部さんが文字をベタ打ちで組まれたものを最初に見た時、すごく新鮮に感じた記憶があります。顕著なのは『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』ですけど、これに限らず。
これも文字組みにおける方法を開発するみたいなモチベーションだったんですか?
そうだね。その時はなんか結構いろいろ言われたね。このフォントはデザイナーが使ってはいけないと言われていたものだから。そうかな? 一番かっこいいんじゃないかな? みたいな。ちょっと仮説を立てて。
それもある種の疑いが。
そうそう。でも本当は微妙に調整しているのね。mとmがあまりにもくっつくと困るからちょっと離したり。やってないフリをするために、細かくやっているという。
ただルールを破っているというよりも、違うルールを見つけている、というところまでいけば新鮮に見えると思うんだよね。ただルールを破りました、だとやっぱり弱いかな。それだけだと成立しないかな。文字のスペーシングがぎこちなくても、ピッチが揃っていることは別のルールでもあるし、それで全然ありなんじゃないの? みたいな。それをどうやったらわかりやすい形で作れるかな、と。変な改行の3行組みにするってことも含めて、この時は文字組って何かってことを考えてた。
他者、過去の自分
作家さんのいい絵や写真がある時に、どういうデザインが最善なのかは、結構悩ましいというか、これでいいって思う基準が難しいなと思っていて。そこは結構悩まれたりします?
やらなすぎてもどうかなって思っちゃうし、やりすぎても自分が主張する場じゃないなとか思っちゃったりとか。みんながどういう感じでそれと向き合っているか気になります。
服部さんは本ではデザインしすぎないみたいな感覚なのかなと思いつつ、反対に告知のビジュアルでは結構大胆にレイアウトされている印象があります。
その通りかもね。例えば仲條さんの作品集の時は、書店のイベントのポスターもいくつか作ったんだけど、告知物の方はちょっと何かやらなきゃみたいな。でも告知内容は仲條さんの本だから、仲條さんにフィットしつつアレンジするみたいな感覚で作っている。仲條さんがやりそうなデザインというのとはちょっと違うけど。
テキストの本だと、文章を世に出すためのものではあるけど、文章の世界を表そうとはあまり思っていないかもしれないね。それをやってもあまり面白くないんじゃないかって思っているかも。
その本の世界をわかりやすく見せて誘うみたいな感覚というよりは、文章とデザインを変な角度で出会わせたいっていう感覚があるかもね。何でもいいわけじゃないんだけど。一点だけパチッと交わるところがあれば、それで成立できるかもっていう感覚がある。もちろん編集者の話とかを聞いて、考えながらやるんだけど、気をつかいすぎちゃうと面白くなくなるかな。
デザインするものが、やっぱり存在として面白くあってほしいっていうのはすごくあるかもね。チェック項目をクリアしていくみたいな感覚ではないデザインの仕方をしたい。
今見ると新鮮だなとか、今の自分だったらしないものとかありますか?
2001年に会社を辞めてすぐ、『流行通信』っていう雑誌をやったんですけど、やっぱりその頃は自分でもギアを上げるというか、作るものの思い切りをもっと良くしないとダメだなって思ったり、もっと極端なことをやった方がいいんじゃないかとか思ってたね。
40歳になる前ぐらいかな。なんかいい感じ、とか言って褒められて、新人賞をもらったけど、もうちょっとギアを上げないとダメだぞ、みたいな感じがあったりした。
その時にたまたま『流行通信』みたいな仕事があったことが幸いしたけどね。だから、もっと極端なものを作ろうとか、変だけどこれでいいはずだとか、そんな感覚でやっていました。
そのギアを上げている時の制作物は、今見てどう思いますか?
やっぱりなかなかいいですよ、自分でも。今では作れない感じもあるよね。その頃のやり方を今もう一回やってもうまくいかないと思うし。
そうなんですね。
まあ、同じことをやってもしょうがないっていうのもある。あとやっぱりその時の感覚とか体力とか、そういうものでやっていたからね。でも今やれることと当時やれることは違うと思うので、今はそれをやろうと思っていますけどね。
余談、言語化の不可能性
そもそも、今日みたいにデザイナーがデザインに関して話すって、なかなか難しいところもありますよね。僕ももちろんそういう文章を読んだり、他の人の話を聞いたりすることもありますけど、やっぱり言葉の世界と視覚的な世界は、本当はどこまで行っても平行線というか、デザインを言葉に翻訳するっていうのは、すごく困難なことだなといつも思っていて。
ひとつには、言葉は言葉の世界の文法でできていて、視覚は視覚の世界の文法でできているから難しい。もうひとつは、意外と作った人はわかっていないんだなって思うことも結構あって。僕がある作品に対してすごくいいなと思うポイントがあって話を聞いても、作者はそのことに意外と無自覚だったり、それについては喋ってくれなかったり。それはそれで全然いいんだけど。
こうやって話すことにも何かがあるって思ってはいるんですけど、グラフィックデザインは視覚言語だから、視覚言語に自信を持っていいんじゃないかなっていう気もしています。つまり、言葉で説明できないから見て感じとってほしい、と言ってしまって全然かまわないっていうか。やっぱり言葉って強いからさ。伝達力はやっぱり視覚言語より言葉の方が強いと思うけど、デザイナーはそこにあんまり引きずられすぎないことも大事かなと思ったりもしますね。
プレゼンとかでもそこは難しいなと思っています。説明をすごく求められるけど、そうすると言葉だけがいろんなところに広がって、本当にそれでいいんだっけ? と思ったり。
大事なことだとは思いますけどね。仕事を成立させていく上では、言葉での伝達も大事だし。デザイナーによっては、言葉での説明を含めてデザインと捉えている人もいると思います。それはさまざまだけど。
翻訳の問題と認識の問題がありますよね。実は僕たちもこのウェブサイトを作る上で、そもそも説明って不可能なんじゃないかという話をしていました。同時に作者の自身の制作物に対する認識についても疑いがあります。
なので僕らは、クライアントやコンペに提出するような言葉とはまた別の言葉を添えてみたり、ゲストといろんな角度で対話をしてみたり。やったことないんでわからないですけど、そういう乱れ打ち? をしてみることで、作家と制作物の解像度を上げられるのではないか、という目論見があるのですが。どう思いますか?
そうだよね。いや、言葉とか対話はすごい大事だなと思ってはいるんですよ。ただ、その言葉の世界と視覚言語の世界は、やっぱり本当は一対一で対応しているわけじゃないんで。日本語を英語に訳す時も、これは英語にはない概念だから訳せないみたいな言葉があるじゃないですか。そういうことが本当はいっぱいある。
余談、評価
JAGDAのウェブサイトに、新人賞に対する選考委員のコメントが掲載されていました。その中に「新人賞世代の作品傾向として、中心を取らないアンバランスな配置や、あえて未完成に見せるような定着スタイルが見られる中、特に票を集めたものは、デザインの実力を正面から示した骨太なデザインだと感じた」「受賞者の作品は、安定していつつ、それぞれにチャームポイントがあった。(後略)」(2)とあって。
僕のこのシリーズとかは特に、あまり安定しすぎないように、というか普段とは違うバランス感覚で定着したつもりだったので、失敗したのかな…? みたいな気持ちになって読んでいました。わかりやすいアンバランスさを目指すのはやめておこう、という思いがあったことは確かなんですけど。今回の対談で「鮮度と完成度」というテーマを選んだ個人的な動機としては、このコメントが結構関係しています。もちろん個人的にですが。
いやー。それは当人は読まなくてもいいんじゃない?(笑)
何のことを指しているかも、わからないですしね。
誰が誰に対して言っているのかもわからないですけど。
さっきの話じゃないけどね。難しいですよ。言葉で表現できるのは、デザインのほんの一面だけだから。
安定、骨太なデザインかー、みたいな。おそらく僕のことではないとは思うし、全然嫌な気持ちではないんですけど、自分の感覚とは違ったっていうか。
いいんじゃないの。全く気にしなくていいと思いますよ。「安定」とか「骨太」って言葉をどういうイメージで使ってるか、人によって違うし。人の作品にコメントしているようでいて、結局は自分のデザイン観を確認しているってことも多いし。
余談、自主制作の審査
審査とかで、展覧会の作品とかあるでしょう? 審査でデザインとして評価するのはどうなの? とか、クライアントワークではないからどうなの? みたいな議論もあるけど、新しい表現を見つけていくっていうことは、僕はやっぱりデザインの大きなテーマだと思うし、そういうのはデザイナー同士で選んだりする場だからピックアップできることだと思いますけどね。
そこで誰かがやったことが、また波及効果で他の人が影響を受けて、ちょっとアレンジして、また別の人がうまく仕事と結びつけて(笑)。全然いいと思いますけどね。
業界全体としては、重要な動きに感じます。
だからそういう意味で、やっぱり意味があるんじゃないかなと思っていますけどね。
疑いと動力
基本的に「共通認識されている」と思われるものとか、もっともらしく語られていることは、全部逆にひっくり返して考えた方がいいっていうか。逆で考えた方が本当のことがあるんじゃないかなっていつも思っているけどね。自分もそういうことをつい言っちゃったりはするんだけど。
そうなのかな? 逆じゃない? っていうことは常に思っていますね。それがデザインする上のエンジンになっているというか。モチベーションは純粋にデザインが好きということだと思いますけど、動力は疑うことだったりするのかも。
「逆もあり得るんじゃないか(仮定)」ではなく、「逆だと思う(断定)」ですか?
どっちかというと「逆だと思う」って言いたい気分だけどね。もちろん「逆もあり得るんじゃないか」っていう時もあるよ。あと、褒められたら同じ数の人が貶していると思った方がいいとか、そういうことも思う。
なるほど。
新鮮だねって言われたらちょっと疑った方がいいとか。それは平凡だねって言われていることかもなとか。だから結構内心では警戒してるっていうか。でもそういう、いろいろ考えを巡らせていることを、言葉の世界じゃなくて視覚言語の世界で、何かしら形にしたいなっていうのはありますけどね。それはそんな簡単にできることじゃないけど。大丈夫かな、この話。難しいね。
(1) 「服部一成100ページ」『アイデア』No.317、誠文堂新光社、2006年
(2) JAGDAウェブサイト「JAGDA新人賞2026:選考経緯・展覧会情報」ページ
収録=2026年5月1日
場所=有限会社服部一成











