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02描くこと
K 小林一毅I 石田和幸
小林一毅
1992年滋賀県彦根市生まれ。大阪府寝屋川市、神奈川県横浜市で育ち、多摩美術大学グラフィックデザイン学科を経て(株)資生堂入社。四年間デザイナーとして勤務ののち、2019年よりフリーランス。同年JAGDA新人賞受賞。そのほかの受賞に東京TDC賞(2016年)など。現在、女子美術大学、多摩美術大学非常勤講師。年に一度、年末に一年間の生活の総括として画集を出版しており、今年も南方書局より刊行予定。
線的、面的
今回は「描くこと」をテーマにお話ししていきたいです。
自分は手描きの線を用いたり、それを面的な表現に展開したり、描くことを起点にした作品が多くて、小林さんはそんな表現の先輩だと思っています。作品を作る時、僕は「線と面」を意識することが多いんですが、小林さんはどうですか?
年齢も一歳差ですから、同級生のイメージですよ。僕の場合はどうなんでしょうね。結局テーマによりけりですね。作品見ながら話しますか。
すごい、貴重すぎる。
この『小さなウインドウで見る』で表現してるものは線的なんですよね。
例えば、テーブルの上とその視線の先にある風景の一部分だけをトリミングしてアウトラインを描く。そうやって、元々のモチーフがギリギリわからないところで切り取ると、モチーフの説明として意味を帯びた線だったものが、ただ線として切り離される感覚がある。純粋に線を線として見ていたいという興味があって作っています。『言葉が立ち上がるまえに』では、ふと周りを見渡した時に、ものと目が合うような瞬間があって、「それが何なのか」っていう言葉が立ち上がる前に描いて記録をする。それが自分の潜在的な興味に迫るひとつの手段なのかなと思ってやったんですけど。
そうなんですね。
面的なものは、ひとつの大きな塊というか形態的なイメージがあって。線的なものは、目で追う感じがするというか、ボールを投げた軌跡を追ったり、動きがあるような感覚がある。認識の仕方が面と線で結構違うから、観察したいテーマを見つけた時に、それが塊的なものなのか、時間を伴った動きのあるものなのかによって、面で描くか線で描くかを分けてる感じはする。
なるほど。
この方眼紙の作品は、今年の冬に刊行する予定の画集に収録するもので、未就学児のデッサンに着想を得ていて。うちの子どもを例に挙げると、絵を描くときは輪郭をまず描いてから塗り絵のように塗っていくんですよね。例えば恐竜の人形が目の前にある場合は、さまざまな角度から見た恐竜の姿が輪郭線に徐々に肉付けされるような形で記録されるんです。この絵のように。そんな描き方に着想を得てるから、こういうアプローチになってる。なので、テーマごとに線と面は意識してるのかなとは思います。
面白いです。
石田さんの場合はどうですか?
僕は近い世代に面の印象を強く感じる小林さんがいたので、違うところから開拓したくて、線の方向から表現を深掘りしたいと思いました。ちょうど、細い線の表現も始めていたので。線でそのままアウトプットしたり、それを展開して面に変化させたりとかを、自分はトライしてみようと思っていました。
この作品は、細い線があって微妙に水彩で塗りつぶされてたり。これは線を展開して面にする感覚なんですかね。
そうですね。この『Stick People in the Shape』は輪郭に線がありつつ、塗りによって、面的な表現でもある。あと、こっちの『TILE TALE』の絵の部分はちょっと作り方が違っていて、細い線で描いたパスをデータ上で太らせて、線を面に変化させるみたいな。なのでアウトプット的には面の表現かなって思うんですけど。線から始まって面に行ったり、逆に戻ってきたり、そういうことを去年はいろんな形で実践してましたね。
へー、面白い。『TILE TALE』は元の線をパスで描いてたんですね。
そうですね。データ上で線を太らせることで形にエラーが起こって、それをプリントして輪郭に沿って中を塗ってテクスチャーを取り入れるみたいな。デジタルと手描きを行ったり来たりしながら、という感じで。
そうなんだ。塗りはコピックですか。
そうですね。
僕の場合、いわゆる線的なものと面的なものってもう完全に切り離しちゃってる。同居っていうのは基本的にはないから、その点、面白いというか。違いはありますね、かなりね。
小林さんは最初に線と面のどちらを主体にするかを決めて、そのまま進むイメージですか?
そうですね。お題によって適切な手法を選択できればっていう感じなので。面なのか線なのかっていうのもそうだし、切り絵的なアプローチもするし、折り紙も最近やったりとか。
あんまりこだわってないっちゃ、こだわってないのかもしれないですよね。描ければ何でも、作れれば何でもいい。そういうところはあるかも。
例えば『3rd TIME』とかは、線的とも面的とも言えるかなという気もして。これを作る時はどういう意識だったんですか?
この時は20代の頃で、細い線を引く技量がそんなになくて。技量がないから、とにかく面を潰していきながら画面を構成して、面を残したものが線になっているというやり方なので、回りくどかったんですけど。この時は線的に描く方法論を持ってなかったっていう、ただそんな感じですね。
その後、『小さなウインドウで見る』のようなラインを拾うような手法も取り入れていった。
そうですね。描いてるうちに描き方の選択肢も増えてきて。そういう中で、すごく細い線じゃなくて面的な太さを持った線であれば引けるかな、とか。そういうふうに移り始めてる。
契機
先ほど面から線に移ってきたという話がありましたけど、契機になった作品やエピソードがあれば伺ってみたいです。
最初は髙田唯さんの『FOR STOCKISTS EXHIBITION』ですね。「わかるかわからないか、ギリギリのラインを攻めて結果わからない形にしてほしい」と相談されました。それは『遊泳グラフィック』の時も同じでしたけど、そういう「わからなさを面白がる」ようなことは、当時所属してた会社だとありえないわけですよ。一般消費者とのコミュニケーションだから。ギャップにすごい驚いて、そこで結構絵の抽象性が増したところはありました。
STOCKISTSのグラフィック、よく覚えてます。
あと、子どもの存在もきっかけのひとつです。ある時、子どもがすごくいい石だと言いながらコンクリート片を見せてくれたんです。これは石なのか石じゃないのか。いい石っていうと、今までは角が洗われて丸いとか模様が綺麗だとかそういう石を無意識に選んでしまっていたわけです。誰に教わったわけでもないけどそんな共通認識がある気がして、石選びひとつにしても僕たちは案外自由じゃないのかも、と思うんですよね。もっとごく個人的な判断が子どもはできていると思ったんです。
自分にとってわからないものに急に出会う。いかに日常的にそういう感覚に触れる時間を作るか、ということは、子どもにいろんなものを差し出されるたびに思って。それが契機になって、個人的な活動の場合は、他人の目は棚に上げて、まず自分が描きたいと感じたその衝動に正直に従って描くようにしています。それが仮につまらないものと思われても、自分にとっては魅力的で意味ある時間が過ごせるのであればそれでいいと。髙田さんとの出会いも子どもとの会話も、常識的である必要はひょっとしたらないんじゃないかって気づかせてくれた契機だと思っています。
石田さんはどうですか?
僕は、同級生でデザイナーの齋藤拓実とドローイングの二人展を2021年から始めて。この辺りから線による表現を探求し始めたっていう感じですね。
これ毎年やってますもんね。
そうですね。小林さんの年一回出す画集と近いかもしれないですけど、区切りに向かって何か一個のテーマを設けて、線とか形をグッと突き詰めていく。そういう時間があるのは、自分の中で線とか面に対するアプローチを深めていくきっかけになってますね。
展覧会やる時って毎年ワンテーマなんですか? 僕の場合は「今年何個かできちゃった」みたいなこともあって。特定のひとつを突き詰めていくのか、自由に遊びを持ってやるか、石田さんはどうですか?
最初のほうに3、4個アイデアの種のようなものを考えて、そこから手を動かしつつ、「今年一番実になりそうなのはこれかな」というものを決めていく感じです。
描いていくうちに、最初の意図とは全然違うテーマとか、造形の面白さとか、中心がずれるみたいな感覚があって。
うん、わかるわかる。
そういう感覚は積極的に取り入れて、ずれたところから広がって展覧会につながることが多いですかね。
最初は自分の中である程度理想的なものがあって、そこ目掛けてやるけど、途中から「あれ? こういう面白さもあるよな」と気づく瞬間ってありますよね。当初の思惑から重心がずれて別の作品に転じていくような体験です。
むしろそれを求めてやってる部分が結構ある気もしてて。
画材、描き方
わら半紙に描くことが多い?
今はそれが多いんですが、描き始めた一番最初の紙はこれで。
すごいシワシワ。でもそれがいいですね。
たまたま手元にあったチラシの裏に描いたと思うんですけど、この新聞紙のような風合いがよくて。そこから近い質感のわら半紙に行ったっていう感じです。
そうなんだ。結構偶然というか。
普通のコピー紙とかだと、筆が滑りすぎる感じがあって。
わら半紙は引っかかって破れたりもするんですけど、それぐらいのほうがむしろ自分としては描きやすい。引っかかりの跡とかもそのまま残して、それはそれで味としてあってもいいかな、という感じがあります。
小林さんはそういう味とかは排除していきますか?
そうですね。
ロゴを作るにしても何にしても、モノクロ二階調でいい形をまず作る。色彩やテクスチャーは、形が納得できる状態になったところに加えていくものという感覚があって。
リソグラフにすることも一瞬やりましたけど、こうしたテクスチャー表現はやっぱり自分がやることじゃないなと思います。極力全ての要素を自分で描いて、テクスチャーには一切頼らず必要最低限の情報量で、紙もこだわらずに一番安価なもので、ただモノクロコピーしただけ。それでいいと思えるようなものを作れるようになりたいし、そのために今するべきことがいろいろあると思っています。
鍛錬と癒し
たくさん絵を描く作業って、「すごい鍛錬だね」みたいなことを言われるんですけど、そうじゃないという思いが強くあって。石田さんもそうなのかなと思うんですけど、修行じみたものではない。子育てとかしていると、本当に自分の思い通りにならないことばっかりというか、すごい我慢して日々生活してる中で、早朝の5時とかから作業を始めるんですけど、子どもがまだ寝てる時間に絵を描いたり、切り貼りしたりする時間ってすごい至福なんですよ。
ああ、わかります。
ご褒美の時間としてそれが存在してるから、全然修行じゃない。ずっとやってられるけど1~2時間ぐらいやったら子どもが起きてくるから、じゃあさようなら、みたいな感じで終わっていく。
そこにある作品、すごい量ですね。全部束が分厚い。
束が積まれてくのもそうなんですけど、おかんアートというとその足元にも及ばないですが、自分は今、そういうものの入り口に立っているような気がしています。ちょっと狂気じみた物量の手芸たちのような、いずれそうなっていきそうなくらい作ることがやめられない。
なるほど。暮らしの中の制作というか。
今は昼過ぎに子どもをお迎えに行く生活だから、それまでが自由にできる時間なんですよ。今は幼稚園に預けているけど、それまではずっと家で一緒に生活ですから、子どもといると自由な時間が突然現れて急に終わるんですよ。
だから、すぐ始められてすぐ中断できる手芸的なものがやりやすいというのがあって。一日の中で自由な時間はほとんどないから、子どもが寝ている早朝の時間は唯一の自由時間なんですよね。2時間くらいしか時間がないから短時間で完成させられて場所を取らない、かさばらない作品が基本で、あまり出歩けないから近所で手に入るものだけで構成することになります。
自分の好きな場所に出かけるとかもほとんどできないし、毎日同じことの繰り返しですから、そんな中で確かに前を向いて生きているという実感がこういう制作をすることで感じられるんです。
仕上がったものがどうこうより、その過程が楽しいというか。
僕もご褒美というか、癒やしみたいに感じることが結構あって。
僕の場合は、会社での仕事がコントロールできなかったり、いろいろあって。それに対して、展示用の作品を作ってる時は、夜中に家で誰にも邪魔されずただただ線を描いてる、っていうのが心地いいところはある気がします。
そうですよね。僕も20代の頃は結構そうでしたよ。特に資生堂にいた頃は、JAGDA新人賞を受賞したけど、まだ資生堂ではアートディレクターをやったことない下積みの時だったので。やりたいことができているとは言えない状態で仕事をしていて。だから通勤中の満員電車の中だったり、帰宅した後の深夜帯の時間が自分の時間になるので、その限られた時間の中でどれだけモチベーションを高められるかを意識してました。僕以外でも、夜中に活気づいていた同僚は複数いたと思います。
いいですね。
その時間っていうのは、非力な自分を頼ってくれる友だちのようなクライアントの人たちもいて、そんな人たちと一緒に仕事してる。会社の中では力がなくて落ち込むわけですけど、資生堂の人としてではなく僕個人を頼ってくれる人がいるというだけで当時は救いだったし、そういう人のために使える時間があるからすごい楽しい。それは癒やしですよね。
その感覚は最初からだったんですか? やってるうちに癒やしになっていった?
結婚するまでは鍛錬でした。自分が求める生活を築くにあたって、やらなければいけないことがたくさんあったので。でも子どもが生まれてからは全くそうじゃなくなっちゃいましたね。自分の心の調整のためにやってることだから。
鍛錬的なことでいうと、僕も齋藤拓実との二人展を始めたのが転職したタイミングで。自分のキャリアについての心配が減ったので、展示の作品作りを通して表現とかスタイルを作っていくことに意識を向け始めました。鍛錬みたいなところから始まって、結果的に、仕事のストレスに対する癒やしのような、副次効果がどんどん生まれてきたんです。
結局、描くのが好きなんだな。
っていうことに、二人展の活動を通して気づきました。
自分は大学の時は形を描くタイプじゃなかったんですけど、卒業してから、徐々に自分の知らなかった本質というか、こういう中心もあったんだなと。
新しさ、楽しさ
手で描くという昔ながらの手法にも、何かしらの新しさを見出せるのではと思ってるんですが、小林さんの中にもそういった意識はありますか?
どうなんでしょうね、新しさって。
女子美で教員やってて、白い紙に絵でも文字でも、なんでも良いから描いてきてください。っていう課題をやってるんですけど。毎週10枚、半期10回で100枚ぐらいができる、という。
それ面白いですね。
一週間に10枚描かなければいけないので手順としては単純なものが多いけど、それだけ作ることを繰り返しているうちに描き手の個性も出てくるし、眼差しも鋭くなってくるから面白いですよね。その人が何を見て何に感動しているか、それに輪郭を与えるなかで、世界に対するその人なりの態度が徐々に形作られてきます。
そういった態度は線に現れてくるので、見ててわかるんです。いい線っていうか、この人はこの絵を描くことに対して感動しながら描いてる、とか。適当に描いている人もすぐわかるし。でもその適当さの中に独特な眼差しがあったりもする。
だから新しさっていうと、本人が体験したことの中にある心の揺らぎが形を帯びたものなんですかね。そういうものが感じられる線は生まれたて特有の瑞々しさがある気がします。質感ではなくて、雰囲気としての。
確かに。
小林さんが画材や描き方をいろいろ変えてるのも、「毎回ちょっと違うことしてみよう」と新鮮さを意識してるからですか?
描き方を固定したくないというのはありますよね。
例えばこの、紙にシール紙を貼って画面構成をしている作品は、描こうと思えばモノクロ二階調で描くこともできるんですよね。最近、子どもがシール帳作りにハマり始めて、シール帳にシールを貼るっていうのは、子どもにとってはどうやらかなり楽しい遊びのようなんです。なんでそんな楽しいんだろうと思って、パパもやってみたいとなるわけです(笑)。だけど、僕の性格的に、シール帳を作り始めたら100冊とかになっちゃう。子どもからすると相当嫌じゃないですか。
自分の楽しみが先に取られちゃう。
だから僕のシール帳は、子どもにとってできる限りつまらないやり方にする必要がある。ということで、地味なクラフト紙に真っ白なシールを貼るっていうやり方であれば。
羨ましがらない。
そう。地味な色に地味な色を貼るっていうので、全く興味を示さない。かつ形も違うからそもそもシール帳作りをしてると思われない。幾重にもカモフラージュして。ただ、シール帳だからやっぱりシール紙じゃないといけないな、とか。
そこはちゃんとルールを決めるんですね。
そうそう。興味に対して一番適切なアプローチは何かっていうところから、作り方が決まっていくんです。これはそういうふうにシール帳にならって、仕様が決まっていくし。手法を変えることで何か新しい表現を見つけるっていうよりは、その場の状況に応じた判断で表現が生まれるっていうことかもしれないですね。
面白いです。全部が子どもの成長ともつながって。
やっぱり子どもといる時間が長いので、いろんな発見もあって、それを逃したくないんですよね。悲しいことに、作らないと忘れちゃうから。作りたいものが突然降ってくる状態。子どもからアイデアを差し出されるので、今はそれに対応してるっていう感じです。新しい体験ですね。
石田さんは、アイデアが出てくる時はどんな感じですか?
僕もアイデアは降ってくるのを拾うみたいな感覚があって。自主制作でいうと、展示が終わるとアイデア拾うモードに入るって感じですね。
普段の生活をしていて、仕事や生活の中の何かをヒントに、こう描いたり、こう切り取ったら面白いかもみたいなのを、小さなノートにザーッと描いていって。
展示の会期から逆算するとそろそろ具体的に決めないとな、というタイミングでそこから選んで実践し始める感じです。
じゃあ急に出会って、すぐに作りたい気持ちになることもある?
ありますね。その日の夜が空いてれば、ちょっと描いてみようかなと試してみたり。
いやあ、やっぱりそうなんだ。「こうすればこうなる」みたいな手段がある程度自分の中で組み立てられるようになってくると、急に何か見つけた時に、新しい何かにできそうっていう感覚が生まれるかもしれないですよね。
ですね。いわゆる新しさみたいなのは全然求めてないんですけど、手を動かす中で、自分の中での新しさを発見したいっていうのが原動力なのかもしれない。
確かに確かに。新しいかどうかは別に他人が決めればいいことですからね。自分の中では、何でも新しいっていうか。作るもの何でもそうじゃないですか。できたものはそういう初々しい感じがある。
文字の風景
この前、幼稚園の保育参観に行った時、先生が子どもたちに「と」の書き方を教えてて。
「まず、『と』のこの真っ直ぐ縦に伸びているやつ。これはエスカレーターです。さあみんな乗って。降ります!しゅー。」「じゃあ、そのあとお引っ越しします」「お引っ越しして、今度は丘の上から滑っていきます」「きゅーっと滑って、あ、カーブがあった、カーブがあった、くるんと曲がります」みたいな、絵的な説明をしてて。で、「曲がる時にでんぐり返ししちゃダメだよ」って先生が言ったら「わははは」と子どもたちがすごい笑ってて。
へー、面白いですね。
それがなんか、すごっと思っちゃって。それまでの自分は、文字の造形に対して書き順や骨格の構造に注目して見てしまっていたから、絵的な想像をする余地はなかったんだけれども、先生からそういう説明をされると、途端に風景が目に浮かぶ。そんな絵的な想像を目的に文字を書いたらどうなるんだろう、と思ったり。
見た人が絵を想像できるような文字ってことですか?
いや、「自分が」ですね。「見た人が」にならないんですよね、僕の場合。自分がそういう想像をしたいから。
わかるかもしれないです。僕の場合は、自分が一番最初に「それ」を見られる、みたいなことが描いてる理由かもしれない。
そうそう。でも、それは説明しようがないんですよね、大概。夢の話をうまく説明できないような感覚に近くて、言葉にしようと思ってもあんまり伝えられない。そういう寂しさもあるんだけども、少なくともそれを想像してる自分っていうのはすごく満たされてる。だから、仮にマスターベーションだと言われようとも、自分の人生においては十分作る動機になるな、という感じはあって。自分の人生ですからね。せっかく楽しいことを見つけたのに、他人の視線を気にしてその芽を摘むのは勿体無いじゃないですか。
すごく共感します。文字を意味じゃなくて絵的に説明するということと、去年二人展で展示した『Bug Type』という作品はちょっと近いかもと思ったんですが。
これ文字なんだ。
文字に見えそうだけど文字じゃない、ということを意識して描いたもので。意味を分解してよくわからないものを作って、それが何なのかを見てみたいということが、二人展の作品では常に大きいテーマとしてあるかもな、と話を聞いてて思いました。
先ほど小林さんがおっしゃってたように、人に見せるっていうことよりも、中心が自分にある。けど、せっかくだから展示で見てもらってリアクションも聞いてみようかな、という感じですかね。
確かにそうじゃないとこういう絵の構造にならないですもんね。
そうですね。見せることを目的にしてないからこういう変なことになる。でも、それが面白い。
個人的な活動ですから、見せることを目的にしないものであっても良いですよね。わかりやすく伝えるっていうことはそれを必要としている人がいて初めてするものですからね。
サービスは全然してないつもりだけど、色とか形からいろいろ想像して勝手に楽しんでくれるようなことが意外と起こって。子どもたちもこれを見て、ひらがなの「な」に見えるとか「あ」に見えるとか楽しんでたみたいで。
そういう勝手に人が近寄ってくれるエネルギーがグラフィックにはあって、それを面白いと思ってる気もしますね。
そうなんですよね。見立てるとか、風景を見てる感覚とか、見てる側は自分の過去の記憶とかと照らし合わせて、絵を理解してくれてるようなところはありますよね。
線は結構感覚的に引くんですか?
描き方としては、最初に適当に曲線を描いて、その線に沿うように、定規を使って短い直線をつなげて描いて、もうひとつの曲線を作ります。そのふたつの線の両端同士をつなげてアウトラインを作るという方法です。何かを描こうという意識がなく、機械的に形ができあがるものをいっぱい作って、結果的にそれがひらがなとか文字に見える、みたいなことを目指してます。
ああ、なるほど。最初の適当な曲線が起点になるのはおおらかに構えていていいですね。特定のひらがなを思い浮かべながら描いてみるっていうことではなくて、結果的に〇〇のように見える、というところから作っていくわけなんですね。
そうですね。クライアントワークじゃないからだと思うんですけど、どっちに転んでもいいみたいな自由さがあるから、こういう適当な形を作れるなと思って。
そんなに責任を持たなくていいから自由で思い切った判断はできますよね。
最終的には、できた形を回転させたりひっくり返したりして、この方が文字っぽく感じるかな、と調整しつつなんですけど。
なるほどですね。じゃあ上下の執着もあまりないんですね。僕もないけど。
そうですね。グラフィックを作る時に向きとか見方は一応決めるけど、見る人が一番面白い見方であればどこから見てもいいかな、って感覚があって。そういうのは、展示のような場だとより強く実践するかもしれないですね。
「絵」と「図」
「絵を描く」「図を書く」など、グラフィックや絵を描くことについて言葉ではどう捉えているか、ぜひ聞いてみたいなと。
職業柄、図像っぽいものを描いてるだけで、自分が描いてるものは結局絵なんだよなと思っています。描いてる時、やっぱり何かしらの風景のイメージとか、結構あるんですよ。シール紙の作品で里芋を描いたことがあって。自分の中では里芋でも、他人からは里芋には到底見えないというか。だから図的に見えるんだが、自分の中では「絵」という認識ですね。
石田さんはどうですか?
僕は、どっちかっていうと自分の描いてるものは「図」っていうイメージで。
イラストを使うデザイナーって思われる時も多いんですが、絵的なものを描いているというよりは丸や三角の延長として描いてる意識があるので、そういう意味では「絵」ではないって感覚です。 でも、「絵」という言葉の解釈にもよりますよね。絵とイラストもニュアンスが違うので、大きくいうと「絵」ではある気もするし⋯。
なるほど。
以前小林さんが何かのテキストで、絵の漢字を「図画工作」の「画」で書かれてるのを見つけて。僕が描いてるのもその「画」だなって感じがしました。
他人を向いてるか向いてないかも関係ありそうだなと思ってて。「画」の方で描くと、かなり図案的な、硬質な印象を受けるんですけど、見ている側とのギャップをできるだけ少なくするために「画」って書いてた時期もあるし。
あー、なるほど。
でも自分の感覚では明らかに絵を描いてるから、最近『小さなウインドウで見る』の中では「絵」っていうふうにしてたかな。そこって結構難しいですよね。収録した作品は全てかなり私的な興味で描いてるから、自分がどう捉えてるかっていうのを言葉にした方がいいと思って。やっぱり「絵」なのかなと。でも本に綴じたら「画」集なんですよね。
図に見えるけど絵を描いてるという認識の小林さんと、絵を描いてると言われるけど図を描いてるっていう僕。ある意味逆というか。
確かに逆ですね。面白い。
余談、任せる
ご自身がデザイナーでありつつ、画集とかはスパッと他者にお任せしてる印象があります。
そうですね。画集とかをデザインしてもらっている明津設計は大学の同級生で。
僕は肩書きとしてはグラフィックデザイナーになってるけど、その肩書き云々の前に描きたいっていう気持ちがまずものすごくあるんです。描くことに集中するために、すぐ傍でずっと見てきてくれていて、呼吸を合わせて一緒に伴走してくれる人ということでお願いしています。気持ちをわかってくれる家族みたいなものだと僕は思っているから、好きにやってくれたらそれでいいんです。
なるほど。表紙はこれがいいとか、そういうのはあったりもするんですか?
ないですね。表紙に使う絵を選ぶのも結構暴力的なことだと思っていて。描いている本人としては絵に対する思い入れはだいたい均一なところがあるので、僕が何か特定のものを表紙に選ぶことは、意味を持ちすぎちゃう。
自分が作るものって、子どもが拾ったどんぐりや落ち葉がどっさり入った袋みたいなものだと思ってるんです。その中から「これは何?」ってたまたま気になって拾ったひとつが表紙になるような感覚でいいかなと思っていて。だからそのひとつを拾う役割を明津設計にお願いしています。思い通りにする必要がないところが子育ての日常で面白いところですから。
それを受け入れるのがすごいですね。
想定外なものが出てきた時も、明津設計さんだからまあいいか、って感じですか?
そうですね。普段の生活なんて自分の理解が及ばないことだらけですから。この間だって子どもがフードコートでコップの水の中にヨーグレットを入れて「甘いよこれ」とか言いながら友だちとキャッキャしているわけです。ヨーグレットの入った水はほんのりと甘いこと、最後に残ったヨーグレットは不味いことをそこで知る。そんな想定外の出来事が日常を面白くしてくれるんですよね。そういう体験ほど忘れられないものになるから、想定外で良いんです。
そして、そんな趣深い思い出であっても、他にもそんなことが頻発するから案外忘れていくんですよ。それがすごく嫌で描いてるっていうのもあるから、本にするときに「経験したことのない状況」に自分の身が置かれることを、むしろ望んでるところがあって。
その感覚すごいですね。自分なら無理そう⋯と思いつつ、その想定外を感じてみたいかもしれません。
余談、タイトル
タイトル決めって難しくないですか?
その時々ですかね⋯結構悩みますか?
すごく悩みます。
画集の場合、本に載せる原稿の中からタイトルにふさわしい言葉を見つけていくんですけど、やっぱり難しいですね。明確な理由がない限りは日本語を使いたいというのはあって。
うんうん。
子どもでも読めるようにしたいのと、既視感のある言葉の綴りにならないように、「なんだこれ?」 っていう感覚がちゃんと残るようには意識します。そこに悩んでぐるぐる迷走してなかなか決まらないというのもありますね。で、もうこれで決まったと思っても、明津設計と話している中で練り直すこともあります。
そうなんですね。
『言葉が立ち上がるまえに』はすぐ決まりました。『小さなウインドウで見る』は、「小さな窓で見る」にするかどうか悩んだんですが、窓だとなんか見たことある感じがするなと明津設計とは話していました。
ウインドウっていう言葉によって少しのズレが出て、記憶に残る感じがしますね。
その言葉に初めて触れた感覚というか、そういう初々しさみたいなものを残せないかなと思って。「イ」も大きくしたらよりそんな感覚が出せるかな、とか言葉のディテールの部分で悩みが多くて。
タイトルでいうと、僕は作品の作り始めくらいに仮で付けることが多くて。例えばさっきの『Bug Type』だと、最初は「毛文字」っていうタイトルをつけてたんですね。
曲線の表現の際に毛が立っている感じはありますね。
毛のような文字なのと、毛虫みたいだなとも思って。最終的にはBug=虫と、Type=文字、それとエラーでバグっているということをかけて『Bug Type』というタイトルにしました。
そんな感じで、作品作りの初期に付けた仮のタイトルを、欧文的な言い回しにするのか、接続詞を変えるのか、みたいなディテールをいじって、最終のタイトルが決まるというパターンが多いですね。
掛け言葉的なタイトルにすることも多いかもしれません。
タイトルは絵を理解するための最初の手掛かりになりますからね。掛け言葉によって読み解く際の角度が変えられるのは面白いですし、言葉を絡めながら伝達しようとするのはグラフィックデザイナーらしい発想なのかもしれませんね。
余談、クラウド
この間、林規章さんの展覧会を見に行ったんですけど、原画が280枚ぐらい並んでたと思うんです。描き手としてその絵に費やした時間も想像できるんですよね。自分もたくさん描いている方だと思うのですが、林さんにしても僕にしても大きな空間に並べたら、会場内で一望できるようなパッと見た時の量感にしかならないんだと思って、そういう想像をしたら自分は個人の描き手としては本当に小さな存在なんだと思い知らされます。それでいいし、一枚一枚は大切なものでかけがえのないものと思ったら、大きな展示空間はなんだか容赦がないなあと思いましたね。
本にまとめる時はそういう感覚はありますか?
どうだろう、難しいですね。自費出版で本を作るってどうしてもお金のかかることだから、すごい節制するわけですよ。この数年服も雑貨もまともに買ってないし、こんな本とか出してなければ好きなものももう少し買えるだろうし、多少は楽な生活ができたんじゃないかなとか、そういうこと考えると満足せざるを得ないですけどね。
記録するって意味で本にしてるんですか?
うん。あと、安心するから本にしてるところも。
⋯安心?
この家が燃えたら原画はなくなるけど、本になっていれば残る。
クラウドだ。
そう、クラウドです。絵としては残るし、そうやって残したいと思えるものが自分自身の感触として作れているんだから十分幸せですね。
そういう安心感にお金を払ってます(笑)。
場所=小林一毅 アトリエ













